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渡邉達生の研究室便り

七夕の短冊

2005/07/10

七夕の日が過ぎて、数日がたちました。我が家には、まだ七夕の短冊が飾ってあります。植木鉢に植えた竹に、短冊を下げたものです。

「若竹の伸びゆくごとく子ども等よ。真直ぐにのばせ身をたましひを。」
これは若山牧水の歌ですが、この歌に事寄せ、昨年の秋、それまでの私を支えてくれた小学生の笑顔を思い出し、その行く末を願って竹の鉢植えを買って来たのでした。最初は屋上のバルコニーに置いていました。青空に向かって、すくすくと伸びる様を期待してのことです。しかし、冬に吹く関東のからっ風はすさまじく、この植木鉢を何度も横倒しにしてしまいました。そこで、玄関の入り口に移動しました。それが、この早春のことです。以来、竹は居心地がよくなったのでしょう。地中から新たな芽を次々と出して伸びるようになりました。その若々しい笹を見ていて、この笹に七夕の短冊を下げたくなったのです。7月7日に下げたその短冊は、期日を過ぎた今日も風に揺られています。それを見た通りがかりの人は、後片付けにルーズだと思うでしょうか。それとも、何かの思いを抱いてくれるでしょうか。

今から10年程前のことです。私は国立大学附属小学校の教員をしていたのですが、週に一日、大学へも非常勤講師として出かけることになりました。これは大変なことになったと気付いたのは、新学期が始まってからでした。最初は気概に燃えていた意志も次第に消沈し、自分の不甲斐なさを痛感することになりました。それまでの自分の考えは、他の人の考えたことを「なぞる」ことでしかなかったのです。しかも、自分の信念を持ち得ずに。大学生に話すことによって、そのことに初めて気がついたのでした。これにはマイリマシタ。勉強すればするほど自分のあるべき姿とかけ離れていくようで、心に落ち着きがなくなりました。小学生とのかかわりも何だかあたふたとしたものになってしまって、子どもと接することに喜びを感じなくなってしまいました。しかし、時は猶予を与えてくれません。毎週、カリキュラムを履行していくことになります。そのようにして、5月、6月と、時は過ぎていきました。

大学で講義をする教室は、とある校舎の4階にありました。その校舎の2階は、隣接する校舎の2階と連絡通路で結ばれていました。通路の先は広い屋上テラスにつながり、そこからは階段で下に下りられるようになっています。教室へ行くのには遠回りになりますが、いつのころからか、その屋上テラスを通って教室に行くようになりました。時おり、屋上テラスで課外活動をしている学生のひたむきな姿が、寒々しい私の心にホッとする空間を与えてくれたからでした。裏を返せば、直接には教室に行けないようになっていたのです。不登校になる手前だったのでしょう。

その屋上テラスの一角に、竹が植わっているコーナーがありました。2・3畳の広さです。2階の高さにありますから風があります。いつも、竹林の笹は風に揺れていました。ある時、その揺れている笹の間に異様な物を発見しました。橙色です。よく見ると短冊でした。一瞬、何のことかと思いましたが、7月になっていることに気づきました。誰かが、七夕様への願いを短冊に書いて下げたに違いありません。ふっと、こわばっていた心が溶け出したような安堵感に浸りました。短冊を下げたのは誰なのでしょう。どうして下げる気持ちになったのでしょう。しかも、一枚だけを...。郷里を遠く離れた新入生が望郷の念に駆られたのでしょうか。就職に思いをめぐらす学生が将来への希望を託したのでしょうか。部活にいそしむ学生が対外試合への必勝を祈願したのでしょうか。いずれにせよ、たった一枚だけ、短冊に願いを書いて七夕の星空に思いをかけた大学生がいたのです。「素直だな」と思いました。

それから、一週間がたっても、二週間がたっても、夏休みが終わっても、その短冊はあったのです。大学に行くたびに、一枚の橙色の短冊は、何事もなかったかのように竹に下がっていました。その屋上テラスは多くの人が行き交う場所です。そこを通る人や、そこで部活や集いをする人の目にも入っているはずです。だれかがそれを取り外せばそれっきりです。しかし、そうはなりませんでした。これは偶然でしょうか。いや、そうではないでしょう。きっと、この短冊を見かけた多くの人が、星に願いごとをすることを貴いこととして支え続けていたからに違いありません。

私も、この短冊を下げた人のことを想像しているうちに、心の迷いが取れていきました。素直になろうと思ったのです。いくら、自分を飾り立てても、地につながっていなければわずらわしさを生むだけで、落ち着いて前を見ることすらできない。今まで自分が備えてきた感覚や感性を大切にし、それでもって自分の考えを積み重ねていけばよいのではないか。教師という高見に上ってものごとを考えようとするのではなく、小学生や大学生の生き方にかかわれることに意義を感じる自分があれば、自分の道はおのずと定まっていくであろう。そう考えると、大学の教室への足取りも軽くなり、小学生の笑顔にはまぶしさも感じられるようになっていました。

私は、あの橙色の、一枚の短冊に救われました。短冊は翌年の2月まではあったと記憶しています。その後、春休みになり、翌年の4月からは講義をする教室が離れたところに変わりましたので、その屋上テラスを通ることはなくなりました。しかし、私にとっては、人生のメモリアル・ポイントとしていつまでも記憶の中にあります。

それで、今度は自分で短冊を下げました。
十余年前、ある大学の構内に一枚の短冊を下げてくれた見ず知らずの学生と、それを支えてくれた多くの人々に感謝して。
この短冊は7月7日だけのものではありません。世の中にある、人と人とのつながりの価値を引き継ぐものです。

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