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渡邉達生の研究室便り

生きる喜びを追う

2008/09/27

 福岡市教育センターから、お父さん・お母さん・学校の先生方に、「学校・家庭生活の中の生きる喜び」について話をしてほしいとの依頼があった。生きる喜びというときの喜びは、普通に表現する喜びとは区別して考えた方が的を得る。
「今日は遠足だ、うれしいよ。」「欲しかった時計を買うことができた、うれしい。」
というような喜びとは区別して考えるのである。遠足や、時計は、外からやって来た。そして、自分に喜びを与えてくれた。しかし、生きるということは、主体的に生きることによってこそ、真価が出る。であるから、生きる喜びというときの喜びとは、外からではなくて、内から湧き出てくるものであることが、喜びを、より喜びとして価値のあるものにしてくれよう。

 内から湧き出てくる喜びとは、自分でつくりだす喜びである。では、自分でつくりだす喜びとは、どのようなときに生じさせることができるのであろうか。つくりだすとは、そうではないものを、そのようにしていくことである。その論旨を借りると、この場合、喜びではないものを喜びにしていくことが、喜びをつくりだすことになる。自分の心が喜びの状態にはないときとは、つらいとき、困難なことを引き受けているとき、理不尽とも思える境遇にいるとき、友達といさかいをしているとき、さびしいとき、悲しいとき、落ち込んでいるとき等であろう。それらを克服できると喜びを感じていくことができる。それが、生きる喜びである。人の心は、生きることに大きな役割を果たしてくれるのである。

 そのように、当日、お話する内容の構想をしていたところ、当日近くになって、福岡の近くに、生きる喜びを社会で実現した人たちがいたことを思い出した。今から150年ほど前の、江戸時代の終わりのころの事である。場所は、今の熊本県、矢部郷。九州山地の山懐。そこに、周囲を三本の川と深い崖で囲まれた白糸台地があった。川があるのに、その水を台地に引き揚げることができない。すぐ下を川が流れているのに、水田を開けない土地が多々あるのである。江戸時代の農村では稲作ができることが何よりであった。米が、生活の基盤を支えていた時代である。白糸台地に住む人々の生活は困窮を極めていた。

 その台地に、対岸から石を積んで水道橋を架け、水を引き、水田100町歩を切り拓いた人たちがいた。谷底から約26メートルの高台にある白糸台地に水を引いたのである。しかし、水道橋の高さは20メートル。当時の技術では石橋では20メートルの高さまでが限界であったという。その20メートルぎりぎりまで石を積み、そこから、さらに6メートル高い台地に水を噴き上げさせる。

 
より高い所に水をあげ、より多くの地域を潤す。そこには限りなき追求の美学を感じる。今のようなポンプのない時代、架けた水道橋よりも高いところに水を押し上げるとは、何という壮大な企画であろうか。生きることの何たるかを示してくれているようにも思う。その橋は「通潤橋」といい、今尚、健在であるという。その橋を見たいと思った。

 9月18日、台風13号が九州近海を迷走するという状況の中、飛行機の予定をキャンセルして早朝の新幹線で福岡に向かった。福岡市教育センターでは約200名の人々が温かく迎えてくれた。センターの先生方にお世話をいただき、役目も無事に果たすことができた。当日は、博多駅前に一泊。翌、9月19日は、通潤橋経由での帰京がスタートした。
 台風が九州南部に接近という中、博多から熊本まで鹿児島本線を南下。そして、熊本から豊肥線に乗って東に向かう。肥後大津で降り、さらに、レンタカーで九州山地を南下すること1時間。そこに、通潤橋は、確かにあった。

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 谷間にかかる石のアーチ橋。周囲の自然と調和し、見るものに、安心感や存在感を投げかけてくる。川沿いにはコスモスの花が咲き、のどかな秋の風情をつくりだしていた。150年前、ここに人々の情熱が注ぎ込まれたのだ。写真で見ると、右が白糸台地である。
 
 この石橋の中に3本の石管が平行して通り、水は左から右に向けて流れ、さらには傾斜地に沿って6メートルの高さを駆け上がる。その仕組みに触れたくて、水の流れを辿ってみることにした。
水が流れ込むところは写真の左側であるが、そこは上からの傾斜地になっておりそこにも石管が埋め込まれていた。その石の管を辿って水の取れ入れ口まで登って行くと、水が流れて来ている水路があった。川の上流から、この地まで水路が引かれているのである。しかし、水の流れるようすは何だか頼りない。ゆっくり、ゆっくりと流れて来る。水路であるから、そんなに急に流れる必要はない。しかし、その流れの速さは違和感を覚えるほどにゆっくりなのである。(この疑問は後から解けることとなる。) 水は、そこから石管の中に入り、橋に向けて駆け下りるようになっている。そして、石橋まで駆け下りてきた水は、石橋の中の石管を渡り、写真の右側の傾斜地に設えられた石管の中を駆け上がる。その水の流れに沿って歩いた。坂を下り、橋を渡って対岸の坂を登る。その間、石管の上部だけが地面に露出していて、まるで、石畳の道をたどるかのような印象を受ける。

 水の吹き出し口は、対岸の坂の上にあった。そこには、大きな水をためる水槽がつくられていて、その底から水が涌き出ていた。確かに、対岸から流れ落ちた水は、ここまで、上がってきている。この水は、ここから、白糸台地の隅々に流れていくのである。

 人の力とは、何と素晴らしいものであろうか。江戸時代、機械力のない時代であるからこそ、人の力の素晴らしさを、表出していくことができる。不自由な環境にいるということは、人間がもっている自由なる力を引き出す機会を与えてくれるということである。人が、人力を尽くして生きることの偉大さに心が打たれたのだった。

 そのとき、どうやら石橋の中央部から水を放水するらしく、人々が、橋の上に集まりだした。石管の中にたまったゴミや土砂を取り除くために、時々、橋の中央部の石管の栓を開けて、そこから水を流すという。やがて、栓が開けられた。水は、勢いよく谷底に弧を描いて落ちて行った。

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 見事なながめである。
 近くにある資料館に寄ると、団体客が帰った後で、だれも参観者はいなかったが、係りの人がわたし一人に、ていねいに説明をしてくれた。
 聞いてみると、驚くことがたくさんあった。
 
 橋に至るまでの水路の水が、なぜにゆっくりと流れていたのか...それは、できるだけ高低差がないように、最小限度の傾斜で水が流れるようにして、水の取り入れ口が高い位置にできるように設計したためであるとのことだった。高い位置から水を流し落とすと、対岸の高い位置に水を噴き上げさせることができる。そうするために、水の取り入れ口まで、できるだけ高低差をつけないで水を引いてくる...「至難のわざ」である。
 
 石橋は、150年を経ても、どうして壊れないのか...見事なアーチ橋の中に、石工の人たちの技術が込められているとのことだった。20メートルの高さに積み上げた石橋を支えているのが「鞘石垣」(さやいしがき)である。上の写真で、橋の下部のところの「すそ広がり」のようになっているところ。湾曲をつけて橋を支えることで、橋の重さがそこに吸収されていくようになっているのだとか。また、「鎖石」といって、凹凸の石を組み合わせ、ずれない構造の箇所が28箇所内在されているという。水が流れる橋である。少しのゆがみもゆるされない。また、田畑を潤し、人々の生活を守り続けるものである。永い年月に耐えるものでなくてはならない。...橋の完成の後、安政の大地震にみまわれたが、この橋は崩れず、水ももれなかったという。...橋の美しさが、力をもって迫ってくる。
 
 石管の4か所に松の木でつくった木樋を埋設してあるという。...石管も寒暖の差でわずかながら膨張と収縮を繰り返す。それによって石にひびが入る。風化作用が起こるのだ。ひびが入るとそこにしみこんだ雨水は凍り、石が割れる。それで、石の膨張と収縮を受け止めるための木樋を入れてあるのだという。...自然と共に暮らしてきた人々の智慧に敬服。

 中に入り込んだ土砂を取り除くために、橋の中央部にある石管の栓を抜いても、水の取り入れ口から中央部までの土砂は流れ出るが、中央部から先、水が駆け上がっていく部分の土砂は取り除くことができない。しかも、土砂の多くは、水が駆け上がっていくときに、重たくて溜まっていくのである。中央部から先の部分にこそ、土砂はたまる。実は、それを取り除くための工夫が、先ほど見た、水の吹き出し口にあった大きな水槽であった。橋の上の栓を抜くと、水槽にためられていた水は石管の中を逆流し、橋の中央部に向かって落ちていくのである。それによって、たまっていた土砂も洗い流されていく。...まさに、卓越した洞察力でこの石橋は設計されている。

 石管はどうやってつなげられていたのだろうか。石の管を並べたままでは、水がもれる。そこには、特殊な仕掛けがあるはずである。ぜひとも、その知恵を知りたいと思った。しかし、それを聞こうとしたとき、団体客が入って来た。今まで、1時間ほど、係りの人を独占してきたが、もう、そういうわけにはいかない。また、その団体客が帰るまで待っている時間もなかった。レンタカーを6時間以内に返却しなければならない。残すところ、1時間半。ここまでの道中が約1時間であった。
聞きたいことはまだまだあったが、残りは、再度来て聞くことにした。

 通潤橋は、秋空の下で、悠然とした構えを見せていた。水の放水は手前に二本、後方に一本の、計三本が、三本の石管ごとに放たれていた。

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 東京に帰り、ご飯を見た時、白いご飯がまぶしく感じられた。150年前、矢部郷の人たちはこのご飯を手に入れるために通潤橋を造り上げたのだ。
 人の喜びは、日常生活を支えるところから出ていくことを再確認したのだった。
 以来、毎朝、お米をといで1合のご飯を炊くことにした。自分でご飯を炊くのは何年ぶりだろう。朝、お米の炊き上がる香りが、一日の元気を与えてくれる気がする。

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