謙虚とは何か
2009/11/07
帰省したとき、黄金色の田んぼが広がっていました。
この稲穂のようすをたとえにして、
「実れば実るほど、頭をたれる稲穂かな」という「ことわざ」があることを思い出します。
かつて、中学生の頃でしたか、このことわざをもって母に諭されたことがあります。確か、生徒会の仕事で奔走していたときでした。そのときには、何だか水を差された気がして、「まあそんなに言わんで...。」と、心の中でひそかにあらがう自分がいました。言っていることの意味はわかるのですが、なぜか、素直には、心に入って行きませんでした。
人は、けん命にしなければならない仕事が続くと、自分に厳しくなります。そうすると、仕事は人にかかわることですから、周りの人には、おうへいな態度となって映ります。このことわざはそれを戒めるために、稲穂の穂先が垂れることを例にして、人に頭を下げることの大切さを教えたものだ...と思っていました。...そして、そうすることが、謙虚であると。しかし、言われた当事者は、自分のためだと言われても愉快ではないのです。当事者の心にさわやかさが訪れてこその、よく生きるための指針となるはずです。そこにあるはずの、道理とはどのようなものなのでしょう。
田んぼには、父と母が丹精をこめて育てた稲穂が実っていました。黄金色に広がる稲穂の中に、穂先が少し沈んでいるところがあります。穂がよく実って、重たいからなのです。しかし、稲の茎が倒れるまでには至っていません。そういえば、ここのところの兼ね合いが難しいのだと、子どものころ聞かされたことがあります。
肥料を効かせれば穂は十分に実る。が、穂が重くなると、風雨の強いとき、稲の茎は地面に倒れる。そうなると、実は地面の水を吸って品質が落ちる。豊作を求めて肥料を多くやりたいのが人情。しかし、十分に実らせることがよいのではない。というのです。稲自身にしてみれば、倒れるまでに実ることを望んでいるはずがありません。人の欲が、稲に、余分な負担をかけるのです。稲の側に立って育てることが大事なのだと子どもながらに思った記憶があります。目の前の田んぼはセーフでした。
そんなことを思い出していると、「謙虚」ということにある道理を考えるのに、稲の側に立って、実りの喜びを見てはどうかという気がしてきました。穂が実ると、稲は倒れないように力を出そうとし、それがかなうことで実りの喜びが味わえるのではないか。そして、そのことが、自分を育ててくれた人に収穫の喜びを与えることになる。何だか妙ですが、そのような努力と喜びの相関関係があるような気がして、その、自分を倒れないようにする努力とそれがもたらす喜びによって謙虚の価値ができているのではないかと思ったのでした。自分を倒れないようにする力の出所を知ることが、謙虚の価値を知ることになるようです。
それから数日後、神奈川県のある小学校の5年生で、「謙虚」をテーマにした道徳の授業が、研究授業として行われ、それを参観することができました。そして、それを見ていて、その、「自分を倒れないようにする力」についての思いを深めることができました。授業をしてくださった先生、授業をつくり出した子どもたち、ありがとうございました。
その授業で用いられたお話(資料)は、全校をあげて催されるスポーツ大会に出るために、ある学級の中に実行委員が選出され、その実行委員の奮闘ぶりを通して、謙虚とは何かを考えさせるものでした。
実行委員になった子どもは、自分たちの学級が全校の中でよい成果を出せるようにと、特別練習を組みます。ところが、その練習に出てこなかった子どもがいました。実行委員の子どもや他の子どもたちは、練習に参加しなかった子どもを責め立てます。すると、その子どもは、顔をくもらせながら、練習に出て来ることができなかった理由を言いました。それで、みんなは納得したのでした。そして、それ以後、実行委員の子は、休む人がいても責めることをせずに、かえってそのような子に温かく接するようになりました。それによって学級にまとまりができ、仲良く練習ができるようになったとのことでした。
実行委員になった子どもは、その仕事を引き受けたことで、学級のために何とかしなければという思いが強くなります。そして、そのための方策、特別練習を立案し、全体をリードして行こうとします。頭の中は練習をさせなければという気持ちで満ちていて、「実る」状態です。そして、そのことによって、自分の思いに反する人を矯正することが、自分のすることだと思ってしまうのです。
しかし、練習を休んだ子どもが沈痛な思いでその理由を言ったとき、気づいたのではないでしょうか。「そうか、君も練習には出たいと思っていたのか」「練習には出たいのに、急に別のことが出て来て、練習には行けずにつらい思いをしていた」「かえって、他の人よりも苦しい思いをさせていたんだ」と。
そのように、練習を休んでしまった子の、「わたしも練習はしたかった」という思いをていねいに汲み取ることが、学級の実行委員としての自分のするべきことであったのです。であるのに、それをしようともせずに、自分で考えた特別練習をさせることしか頭にはなかったのでした。そのことを痛く思ったからでしょう。その後は、練習を休んだ子どもがいても、そのような人に温かく接します。そのひたむきな行為を見ることによってみんなは安心し、心を一つにして練習に取り組むことができました。
ここに、自分を倒れないようにする力が出ているところを見ることができます。周りの人は、全て自分を支えようとしてくれていた人だったのです。そのことに気づくことで、周りの人に温かく接しようとする気持ちがわいてきます。そして、そのようにして、周りの人に接していくことによって、自分に寄せてくれる周りの人の温かさも感じ、また、それによって、自分のしていることに意義を感じていったことでしょう。それが、自分を倒れないようにする力となっているのだと思います。
思い返せば、稲も、田んぼの中に、みんなが勢揃いして実っていました。みんなの中にいることの幸せを感じることが自分を謙虚にさせてくれる、そのことを知らせてくれているようでもありました。
「謙虚」という言葉は、謙と虚から成っています。謙には「つつしむ」という意味があります。虚には「中身がない」と意味があります。このときの、中身がないとは、「からっぽ」ということではなく、自分色のついたものはない、虚の状態のものがある、という意味でしょう。自分の「人のためにこうしなければ」という思いを「虚」にしてみる。そうすると倒れることはなく、さらには、みんなと共に実ることができるのです。昔の人はいいました。「虚心坦懐」と。
人は、成長とともに、社会の中で認められていきます。そして、認められると共に、それに見合う役割を求められます。そこには責任も伴います。だから、人は、その職務に忠実でありたいと思い、職責を果たそうとして一生けん命に努力を重ねます。ところが、その一生けん命になることに陥穽(落としあな)があるのです。人が人であるからでしょう。我欲にほんろうされ、自己に一生けん命であるが故に倒れてしまうのです。その状態を乗り越え、約束されているはずの「実る」という状態をつくりだしてくれるもの、それが「謙虚」でしょうか。そのように思えると、謙虚ということに、さわやかさを見出すことができます。
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