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渡邉達生の研究室便り

命とは何か

2009/12/05

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ひたすら歩き続けました。先週の土曜日、11月27日のことです。大分県竹田市の駅前から山奥に向かって歩き続けること8時間。たどり着いたところは、久住山のふもと、熊本の阿蘇の山々さえもが見える久住高原。高原の野は茶色に冬枯れて、梢の向うには太陽が降りていました。これぞ、待ち焦がれていた景色、わが青春を導き出す道標でありました。

 わたしの卒業した高校は大分県竹田市にあります。その時の同級生から、還暦を祝う同級会を久住高原で行うので集まりませんかといううれしいお便りをいただいたのは、三カ月ほど前のことでした。そう、わたしは、今年、還暦なのです。

高校のときの一番の思い出は42キロを走る強歩大会。学校を出発して、久住山のふもとまでの42キロを、駆け上がり、駆け下りました。それは、辛い苦行でした。1年生のとき、2年生のとき、その辛さに耐えて走った記憶があります。しかし、どう思い返してみても、3年生のときの記憶がないのです。そして、はたと気がつきました。何と、わたしは、3年生のときの強歩大会をサボっていた...。大学入試を前にしての模擬テストがあり、その重圧に屈して、勉強しなければと、机に向っていたのでした。小心者でした。それだけ追い詰められていたといえばそれでもすみそうですが、しかし、それではさびしい。入試と強歩は、表裏一体のものであって、自分を高めるものであったはずです。それを見失っていた青春のの蹉跌。今にして思う悔恨。同級生のみんなは走っていたのです。そのみんなに会える自分になるために、今回の同級会に、強歩で臨むことにしたのでした。但し、歩きで。

 歩き始めて、二時間、三時間、体調は快適でした。秋の深い山々を見て歩いていると、若かりし頃見た景色が、感慨をもって迫ってきます。しかし、四時間を過ぎたあたりから、惰性で歩いているとしか言いようのないような、無気力の状態となりました。孤独と、きつさと、つらさが、合わせ技で心を絞めつけます。

そして、そこから来る寂寥感や無力感がピークになると、「もうやめよう」「いや、もう少し」「何という馬鹿なことをしているんだ」「いや、過去にくぎりをつけるよ」「そんな、今まで、高校のときのことなど気にしないで来たのに」「まあ、まあ、そう言わずにもう少し進んでみるか」...などの、ぐちにも等しいひとりごとが、脳裏をかすめて行きます。それが、壁の出現と、それに立ち向かう自問自答なのでしょう。

壁ができるから自問自答をするのか、自問自答をすることで壁ができるのか、今まで前者だと思っていたのですが、今度のことで後者のような気がしてきました。壁も、自問自答も、己がつくり出すのです。自分のしていることに価値を求めるからこそ壁ができ、それに立ち向かおうとするから、前に進む力が出るのでしょう。

それに比して、人がつくった壁だという認識であれば、その壁があることに責任は感じません。壁を壊してしまうことだってできます。しかし、それでは、前に進むことにはなりません。単なる、わがままを主張することなのです。若き日、強歩をサボったわたしがそうでした。今回、壁は自分でわざわざつくったのです。立ち向かう自分がいるからこそ壁もあるのです。壁が壊れそうになるとき、それをつくり続けることが、前に進む力を自分の中から引き出すことになります。

そう思い直しては何度か壁をつくり直し、その壁に立ち向かうことで、みんなが集まっている会場に到着したのでした。集まっている人たちの顔を見ながら、高校のときの顔を想像します。なかなか、思い出せません。しかし、胸につけた名札を見たとき、高校のときの顔と今の顔が一致します。その顔の違いが、その人に人生があったことを物語っています。この会を計画し、運営してくれている級友に感謝しながら、60年間生きてきたことを共に祝うひと時を過ごしたのでした。

 思えば、高原に向けての8時間の強歩。よくもまあ、そのようなことができたものです。翌日の、帰りの飛行機の中で思い返しているとき、ふと、気づくことがありました。これが、40歳や50歳のときであれば、このようなことをしたいという気持ちが起きただろうか、いや、起きなかったであろうと。60歳であるからこその気力であるのです。生きることが終焉に向かわんとするとき、命は、また、別の味わいを求めるということでしょうか。

翌週、神奈川県のある小学校で、6年生を対象にしての、生命尊重をテーマにした道徳の授業を参観することができました。「生きることの意味」を問いかけることで、命の大切さを明らかにしようとするものでした。その授業を参観していて、命の意味について、今まで以上の思いを抱くことができました。授業をしてくださった先生、子どもたち、ありがとうございました。

授業に用いられた資料(お話)は、ある少年の家で、おばあちゃんが亡くなったときのことを題材にしたものでした。そのおばあちゃんは、年をとっても、毎日のように、近所の小高い山に登っては清掃活動をしていました。その山は見晴らしのよい山で、多くの人たちが訪れ、楽しんでいる山です。その山に登り、掃除をすることが、おばあちゃんの日課のようになっていたのでした。家族が体のことを心配してやめるように言っても、おばあちゃんは続けました。少年は、そのことを思い出し、おばあちゃんの生き方をしのぶのでした。

授業では、子どもたちは、そのおばあちゃんについて、「つよいおばあちゃん」「何でおばあちゃんは苦労をすることが続けられるのか」「そうじをすることで笑顔になるおばあちゃん」という感想をもつことができていました。その発言を聞きながら、子どもの感性は、とてもすばらしいと思いました。お話の中のおばあちゃんに、自分の生き方の指針を感じているのです。そして、これらの発言をよく吟味してみると、その中に、おばあちゃんの命が生み出したものが表現されていることに気づきました。それは、「つよさ」であり、「苦労が続けられること」であり、「笑顔」です。それらは、生きることにとって価値のあることです。

生きることとは、このような価値のあることを生み出していくことではないか、それを生むものが命であり、だから、命は大切なのではないか、そのように考えて行くと、その大切さを生み出していく「命の作用」はどこから来るのかを見極めたくなります。授業中の子どもの発言にあった「何でおばあちゃんは苦労をすることが続けられるのか」という命題が、まさにそれです。それを考えることによって、人に生きる力を湧かせてくれる心の実態を知ることができます。

先日の新聞にあった「自殺者が3万に増加」という見出しに心が痛みます。人には、死ぬことよりも、生きることが辛いと思ってしまうこともあるのです。そうなったときに、自分の生きる力を出せる、その出所があることを知らせることが、今の教育に必要なことであるように思います。思えば、このお話のおばあちゃんには、自分の人生を推し進めた、生きる力の出ているところがありました。

おばあちゃんは、毎日のように近くの山に登りました。そのことから、山が「好きだった」のではないかということが想像できます。当初は、単に山に登ってみようかという、ちょっとした関心だけであったのかも知れません。しかし、自分の足で登れたことが爽快感を味わわせてくれたことでしょう。そして、何回か登っているうちに、山の空気や、そこで出会う人たちが気軽にかわすあいさつに心がやわらぎ、好きになっていったのではないでしょうか。

また、その山に登る人たちがゴミを散らしても文句を言うのではなく、ゴミを拾うことを日課のようにしています。山をよごさないでと、山を守ることが第一義にあるのではなく、山に登る人たちがいることがうれしく、その人たちがきれいな景観を喜んでいたことに「喜びを感じていた」ことが想像できます。いやになることもあったに違いありません。しかし、そのとき、「喜び」を思い返すことによって、自分の思いを強くしていったことでしょう。壁を自らつくり、それに立ち向かうことが、自分の精神性を高めていくのです。

さらには、人々がそれだけこの山に登って来るということで、地域の人はこの山を誇りに思っていることでしょう。その地域社会の中に身を置き、地域の一員としての行動に「うれしさを感じていた」のではないかということが想像できます。

ここに、おばあちゃんの生き方を支えていた心の実態があります。おばあちゃんの生きる力は、おばあちゃんが、地域の山、人々、地域社会にかかわり、「好きなことがある、喜びをもつ、うれしさを感じる」、という心の働きを得て、生み出していたともいえるでしょう。だから、苦労を続けられるのであり、つよいのであり、笑顔になるのです。

このことから、故郷の山や自然を好きになること、周りに人がいることやその人にかかわれることに喜びをもつこと、身近な社会の中にいることにうれしさを感じることで、生きる力を出せるようになることがわかります。

生きることがつらくなったときには、周りの自然に目を向けるようにする、人に喜ばれることをする、社会の中に身を置くようにする。そうすると、そのことが、自分に生きる力を生み出すことになるのです。学校や家庭で、子どもの心の教育に悩んでいる先生方や、お父さん・お母さんに、そのことを知らせたいと思いました。

そう考えたとき、今回の強歩にあたり、わたしを支えてくれた生きる力の出所を知ることができたような気がしました。昔から親しんだ久住山という山があり、同級生というわたしを迎えてくれる人がいて、故郷という社会があったのです。だから、8時間を歩くことができたのでした。
 
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その翌日は、高校以来、クラスメートとの、40数年ぶりのバス遠足。車窓には冬の高原が広がっていました。(写真は、大分・熊本の県境、瀬の本高原)

かつて、青春のとき、この瀬の本高原を通って、阿蘇山までバス遠足に行きました。その仲間も、それぞれに、朱夏のとき、白秋のときを経て、玄冬のときを迎えようとしています。それは、その人なりの人生が、命によって生み出されてきた事の帰結なのです。その、それぞれの人の人生に敬意を表することで、わたしの人生もまた、意味を成して行くように感じました。みなさん、ありがとうございました。

生きるということは人生を生み出すということ。
人生は壁を生み、それに立ち向かう気力を生む。
命は、それを、そうならしめるもの。
だから、命は貴重であり、尊い。ということを知らせてくれた、同級会でした。

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