愛校心
2010/02/08
朝日が昇ると大地が明るくなります。思えば、普通のことです。でも、普通のことに価値を見出せたとき、人は、より豊かな気持ちになっている、そんな気がします。この日の朝日を見たときがそうでした。この日の朝日は格別でした。
かつて、小学校には、尋常小学校というように、「尋常」という言葉がついていました。その、尋常という言葉には、「常(つね)を尋(たず)ねる」という意味がこめられています。「常」は普通という意味で、「尋ねる」とは問うことです。尋常とは、普通のことを問う、ということになります。普通のことですから、別段、問う気にもならないはずです。しかし、そこを、敢えて問うのです。普通のことだと思っていることが、実は大切なことであり、それを把握することが学校の使命だというのです。昔の人の深い思いに心が打たれます。
2010年1月15日、早朝。沖縄県本部町にある八洲学園大学国際高等学校に、朝日が射しかかりました(写真)。いわば、毎日の、普通に見える光景。その朝日の下に、すがすがしい顔で、先生方に別れの挨拶をしている生徒たちがいました。
前日まで、この高校では一週間の、「一月スクーリング」が行われ、日本各地から集まった約50名の生徒たちが、宿泊体験を共にしながら勉学にいそしんでいました。朝8:05のホームルームに始まり、22:10の14限の終了まで、生徒たちの規律ある生活が続きました。
一年間に一週間だけ、沖縄の校舎でスクーリング。他は自宅での学習で高校を卒業できる。この学習スタイルが、この学校の特徴です。
多くの学習を一週間にギユッと凝縮したスクーリングの時間割は決して楽ではありません。しかし、生徒たちは、学習に立ち向かいました。夜、暗やみの中に教室の明かりが煌々と照る様は、見る者の心を清浄なものにしてくれます。実は、そのような向学の志を育くむことも、この学校の特徴です。
毎月開催されているスクーリングは、それぞれ、異なるテーマを掲げています。生徒たちは、月ごとのテーマを見て、自分の気に入った月のスクーリングに参加するのです。1月スクーリングのテーマは「植物」でした。冬の、1月の、植物、です。沖縄ならではの設定。今回のスクーリングは、その植物に関心のある生徒たちが申し込んできたのでした。
テーマは、特別活動と総合活動での活動内容に反映されます。植物園に見学に行って植物の観察をする。そのことをもとに、植物を素材にしたカルタを作成する。また、植物の葉で沖縄の民芸品「ハブグワー」を作る。校舎の敷地に自生している植物の葉で「ムーチー」という餅をつくる。さらには、体育で、近くの八重岳に歩いて登り、緋寒桜という日本で一番に咲く桜の花を見る。...が、今回のスクーリングの特徴でした。
これらの活動は生徒たちに学ぶ意欲を起こさせ、友と語らう楽しさを味わわせるものとなりました。活動の一端を紹介すると...。
「ハブグワー」は、細長い草の葉を蛇のハブの形に編み上げていくもので、ハブのように指に食いついたら離れないという、おもしろい民芸品です。しかし、その作成方法は先生方でも難しいものでした。が、生徒たちは乗り気で、楽しそうに、そして真剣に挑戦している姿には、とてもほほえましいものを感じました。
また、「ムーチー」作りでは、グループの中で、リーダーが生まれ、そのリーダーの掛け声のもと、明るく協力している姿に、自分を乗り越えている姿を感じました。年に、一回のスクーリング。初めて顔を合わせる生徒たちも多かったことでしょう。全国各地から集まって来た生徒が、その孤独さをふりはらい、他の人とのかかわりをもつことには、思ったよりも気力が必要になります。それまで、他の人と語り合うきっかけをつかめなかった生徒もいたことでしょう。でも、少人数にグループ分けがされると、互いの役割が生まれ、活動する場が与えられます。それぞれが、周りの人に役立つ心地よさを味わっていました。
生徒たちは、自分で植物というテーマを選択したときから、意欲を芽生えさせています。そして、学校の授業で、先生や級友と一緒に植物にかかわることで、先生や級友との間に心のつながりをもつことができました。人と一緒にいることに喜びを感じることができるようになったのです。その喜びが自分を前に進め、他の教科の学習での意欲にも発展したのでした。
14日の夜には修了式が行われ、このスクーリングで卒業できることが明らかになった生徒たちが、一人ずつ、自分のこれまでの辛い思いや、卒業できることの感激を、全員の前で話しました。その堂々とした姿に、人が生きることの価値を見た思いがしました。
ある、生徒が、次のような趣旨の言葉を全員に語りかけていました。
「世界一だめなこの俺を、卒業させてくれた、みんな、ありがとう。」
この言葉に、思わず、涙ぐんでしまいました。生徒が、このように自分の心を整理できるということは、先生方の心が、そして、級友の心がいかに温かいものであったかということです。生徒は、人生の大切な場面を、確実につかんでいます。そして、その翌朝、朝日が、やわらかな日射しを射しかけたのでした。
学校とは勉強するために通う所だと、考えてみれば普通のことです。しかし、ふだんの生活の中で、その普通であることが、問いとなることがあります。学校とは何か。なぜ学校に行かなければならないのか。その思いにとらわれたとき、胸は苦しくなります。普通であることが、できないからです。この高校に入学した生徒たちも、以前、その思いにとらわれたこともあったでしょう。でも、その思いをめぐらせ、自分で行動することで、学校の価値を見出したのでした。
卒業認定を受けた生徒たちは、桜の花びらの形をしたカードに自分の思いを書いて食堂の壁に貼ります。食堂の壁には、卒業していった先輩たちの思いがずっと残されていくのです。その花びらの一枚一枚に書かれた言葉を見てみると、生徒たちのあつい思いが伝わって来ます。
「この八洲学園国際高校が大好きだよ。」「一生、忘れられない思い出ができた。」「自分に合った高校に出会えた。」「友達、先生、ありがとう。」「これから、がんばって生きて行くよ。」
短い言葉に自分の思いをギュッと込めて、みんなに発信する。簡単そうに見えて、勇気のいることです。しかし、それができる自分に成長しています。
この、貴重な生徒たちの体験をもとにすると、学校とは、先生や級友と共に学ぶことを通して、人と共に生きていく力を身につけ、生涯にわたって生きて行く足がかりをつかむ所であるといえるでしょう。学校での、先生や友達との思い出が、それを確かなものにするはずです。卒業後、学校への思いは、先生や友達と過ごしたことを懐かしく思うことに広がり、それがその時々の自分に返ってきて、元気や勇気を与えてくれるようになるのです。学校にはそのような価値があったのでした。生徒たちは、その学校の価値を自覚することができました。このとき、確実に人生の階段を上っている自分を感じているはずです。
近年、学力テストの成果を上げることが、学校の価値であるかのような風聞を耳にします。全国で何位、全県で何位、市内で何位。有名校に何人進学した...。人は、そうやって競争心をたきつけられると、つい、その枠組みの中でものごとを考えがちになります。人よりも遅れさせてはならぬ...それが教育であり、それを進めるのが教師であり、親であると。でも、世紀の祭典といわれるオリンピックも、メダルの獲得に奔走するばかりでは見苦しい人間性を映し出すことになるように、テストの結果に一喜一憂するばかりでは、さびしい教育観を露呈するようになる...そのような気がします。
もちろん、テストの結果も大事です。結果が得られるようにと、子どもを激励する。それで、教師、親、子どもに目標ができ、教育や勉学の方法もとらえやすくなります。勉強机に向かう。よい点数をとる。これらはよいことです。しかし、それを、教育の王道として、それだけが価値のあることだという意識をもつと、見失うものも出てくるのではないでしょうか。テストのことも、学校生活の中の、普通のことなのです。
人が生きるということはどういうことでしょう。子どもは、やがて大人になり、一人の人間として社会で生活するようになります。すると、ときには、つらいことやさびしいことに出会うでしょう。そのとき、学校で先生や友と学んだ日々を思い出すと、心は人間らしさを取り戻し、明日を見る力を呼び戻してくれるのではないでしょうか。学校の価値は、人が生涯を生ききるという視点をもって見たときに、大きな光を放ってくれます。
そのような学校の価値を学ぶトレーニングが、小学校でも行われています。5年生、6年生で、愛校心をテーマにした道徳の授業が行われるようになっているのです。愛校心とは、文字通り、学校を愛する心です。学校に価値があると思うから愛するのです。それは、学校に通う子どもたちの、誰もがもっている心でしょう。いわば、普通のこと、なのです。しかし、普通のことであるが故に、その価値を見失うことがあります。そこで、敢えて、その価値を問い正してみる機会をつくるのです。まさに、愛校心をテーマにして「尋常」の教育が行われることになります。
先日、山形県天童市の、ある小学校にお伺いすることがありました。山形新幹線の車窓から見える景色は見事な雪景色でした。その中を「つばさ」は突き進み、難なく運んでくれました。そして、その学校で、5年生の、愛校心をテーマにした道徳の授業を参観することができました。「5年生が6年生になることの意味」を問いかけることで、学校を愛することの価値を明らかにしようとするものでした。その授業を参観して、学校の意味について、新たに気づくことがありました。授業をしてくださった先生、子どもたち、ありがとうございました。
授業に用いられた資料(お話)は、2月の学校行事「6年生を送る会」の、企画・運営を託された5年生が、今まで6年生がしていたことを思い出しながら、自分たちで実行し、自分たちの役割を果たそうとしたときのことを題材にしたものです。5年生は、よく計画し、全校のお世話をしようとしました。でも、下級生をうまくリードしていくことができません。そのとき、ゲストである6年生が率先して動いてくれたので、何とか無事に終えることができました。そして、会が終わった後、6年生から、わたしたちも失敗しながらここまで来たの、がんばってね、という励ましの言葉をもらったのでした。
ここには、5年生が6年生に代わって、全校の世話をしようとすること、しかし、まだ、6年生のようには、うまくできないこと、でも、できるようになりたいという思いをもったことが描きだされています。
授業では、子どもたちは、お話の中の5年生の気持ちを想像しました。
「6年生、ありがとう。」「こんな6年生になりたい。」「6年生も失敗しながら、自分たちを築いてきた。」
そして、その5年生の姿に、6年生になった自分たちを重ねて行きました。
「低学年にやさしくする」「困っていることを助ける。」「自覚と責任をもつ。」「がんばる。」「何事にもチャレンジする。」「低学年にあいさつを元気よくする。」「みんなをまとめる」
この発言を聞きながら、子どもの感性は、素直で、すばらしいと思いました。お話の中の5年生に、自分の生き方の指針を感じているのです。
ある子どもが、「時間や行動を守る。」と発言しました。そのとき、先生が「今、できているかい。」と聞きました。子どもは「できていない。」と答えました。...今、できていないけれども、できるようにがんばりたい、ここに、6年生になることを契機にして自分をよりよくしたいという意志が出ています。自分一人では、つい甘えてしまうことも、下級生のためになる自分になりたい、と思って克服しようとしているのです。すばらしいですね。それを受けて、「下級生のためにがんばれ」と激励するのが、従来の方法でした。
子どもが、そのように思うことは、とてもよいことで、貴いことです。「学校のために尽くしたい」、「下級生のために尽くしたい」。これが誤っているとは、だれも思いません。よいことなのです。しかし、そこには、考えてみなければならないことがあります。
~のために尽くす、ということ、それ自体は美しいことです。でも、であるがゆえに、自身も、周りの人も、それをコントロールすることができなくなるのです。時には、行き過ぎとなることもあるでしょう。善かれと思ってしていることですから、際限がないのです。過ぎると、「私は下級生のために尽くしているのに...」という不満も出るでしょう。同じことをしている同級生に向かっても、「あなたのやり方はだらしがない」という、一喝が出てしまうかもしれません。また、先生からの指示を、必要以上に重く受け止めることがあるかもしれません。それらは、学級に、恐れや物言わぬ従順さをつくり出します。
かつて、国家のために、地域社会のために、家のために、お父さん・お母さんのためにと、声高々に叫ばれた時代がありました。しかし、それは、人々が幸せに暮らす社会の形成には結びつかなかったのです。まして、今は、一人ひとりの、個人としての価値が重視されている時代です。他に尽くすことがよい、では、今の時代にはそぐわないでしょう。どうすればよいのでしょう。
そこで、この、愛校心のところで思い返してみると、学校のために尽くすことはよいこと、6年生になったらそれを心がけなければならないと、子どもたちのだれもが思っていることがわかります。そこで、その当たり前のことを念押しするのではなく、そのことが、どうしてよいことなのかという、「尋常」の学びを展開することが考えられます。
そう思ったのは、授業中、先生が次の発問をしたときでした。
「こんなこと(低学年にやさしくする、がんばる、みんなをまとめる等)ができたら、どんないいことがあるの?」
これには、子どもたちは困りました。
でも、いい発問だと思いました。子どもたちは、わからないから、考えようとします。
下級生のためにすることは、いいことです。でも、それが、新たないいことを生み出すって...。
そんなぁ...。
しばらくして、ある子どもが考えにつまったように、ぽつりと言いました。
「普通。」
それ以外に、どうも考えようがないというようでした。
先生も、「そうか、がんばっても普通のことか」と、考え込みました。
ここに、普通の生活の中にある価値を問う場面ができました。普通の生活の中に意味がある、しかし、それは何?釈然としません。...ここが、授業の一番の見所でした。先生が考え込み、子どもたちも考え込む。学習指導要領にいいます。「道徳の時間においては...自己の生き方についての考えを深め...」まさに、この場面のことでしょう。
重苦しい雰囲気になってきたとき、先生が、6年生からもらったというメッセージを読み上げました。そこには、自分たちが行動することで、自分たちや下級生の中に、笑顔、協力、励まし、団結が生まれ、それを見て、成長していけたことが紹介されていました。子どもたちは、知らない世界を知ることができたのでした。
6年生としての普通の生活が、人に、そして、自分に、笑顔、協力、励まし、団結をつくりだしていくのです。そして、そうすることが自分を成長させることなのです。ここに、「みんなのためにがんばりましょう」という、うわべのことで終結させない工夫がありました。みんなのために生きることは、自分の生きる力を導き出していくことだったのです。
さらには、校長先生が、子どもたちの前に立ち、「母校」という言葉をもとにして、自分がこの学校の卒業生であり、この学校が母校となっていること、何かの折に、ふと、この小学校で過ごした子どものときのことを思い出すこと、それが自分を元気づけてくれること、さらには、この学校の卒業生が今までに約12000人いて、子どもたちがそれに続くこと、を話されました。
このことによって、子どもたちは学校ということの価値を、さらに大きな視野でとらえることができました。学校は、卒業後も、心の中に、母校として存在し続けていくのです。今、学校でがんばっていることの思い出が、将来の、自分の生きることを支える...。だから、学校は大切なところなのです。学校は、人の一生を後押ししてくれます。しかも、その学校は、歴代の卒業生によってつくられてきたから、ここにあるのでした。
ある子どもが、この学習で学んだこととして、次のように発表していました。
「不安なこともあるけれど、恐れないことが大切。」
いい言葉だと思いました。自分の生き方を、きちんと見ています。
学校は、子どもをたくましく育ててくれるところです。子どもが、そのことを自覚したとき、学校は、子どもにとって、真に楽しいところになる...そう思ったとき、なぜか、わたしの心もシャンとしてきました。子どもに、真摯に生きることの価値を教えられたのです。
ありがとうございました。
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