八洲学園大学トップ > 八洲学園大学ブログ > 渡邉達生の研究室便り > 自由とは何か
渡邉達生の研究室便り

自由とは何か

2010/03/16

   昨年の暮れのことです。知人から、宅配便が届きました。開けると中には、斜めに切られた竹筒が入っていました。以来、この竹筒は研究室の窓辺に飾られています。窓の向こうに一段と高く見えるのは横浜ランドマークタワー。そのランドマークタワーを前にして、この竹筒は伝統技の価値を示している気がします。

  この竹筒を送ってくれた知人は日本刀の達人です。堅い竹を日本刀でもって一撃のもとに切り、花器としたのでした。

  うぬ、見事な切り口。ノコギリやナイフ等ではなく、日本刀で、気合いとともに一気に切っていることに、すばらしい精神世界の存在を感じます。このようにきれいに切るには、これまでに相当の修練を積み、精神の鍛錬をしてきたことでしょう。

  一瞬のうちに切られた竹は、気がつくと、節の内側が、外の光の中に存在していました。今まで、竹は、節で作った内部空間を守ることが自身の存在を示すことでした。その空間に明かりが射すことはなかったでしょう。節の内側は外の世界とは隔絶された世界です。それがあるから竹は丈夫であり、しなやかであり、強かったのです。しかし、切られたことで、はからずも、節の内側の価値を違った形で提示することになりました。

  節の中は美しいです。閉塞感はありません。解き放たれた自由を感じます。節は底となっています。今までの節を生かし、新たな節のあり方を示しているのです。価値のあるものを、さらに価値のあるものにしていく、それが自由の価値でしょうか...。節(せつ)をつくることは生きる形をお仕着せることであり、自由はそれを自分にあつらえること...。

  そのようなとりとめのないことを考え、三カ月ほどが経ちました。ときは、三月。ラジオから、アナウンサーの、「...三月は節目の時期にあたりますね。駅で卒業式帰りの若者を見かけました。みなさんの中にも、いろいろと節目を迎えている方もいらっしゃることでしょう...」という声が流れてきました。その、節目を迎える...、という言葉が、妙に心に響きました。そう、三月は、卒業、転勤、定年など、人生の節目が訪れる時期です。

  思えば、学校や会社に、入学・入社することは新しい節(せつ)に入ることです。しかし、節の中は、決して楽しいことばかりではなかったはずです。いやなことやつらいこともあり、それを克服して行く生活がありました。ところが、いざ、節を出ようとするとき、それらはなつかしく、心地よい思い出になっているのではないでしょうか。節はいやなことやつらいことをお仕着せますが、人はそれを心地よいものにすることができます。人は、「節」を自分用にあつらえる「自由の力」をもつともいえるでしょう。

  小学校の5・6年生で、自由をテーマにした道徳の授業が行われています。人は自由に憧れます。自分の好きなようにできるとうれしくなりますね。身の回りが快適な空間になるのです。しかし、あるとき、5年生の子どもが言いました。
「自由はつまらない。」
「どうして。」
「今日、家に帰ったら、何もすることがない。」
「のんびりできていいじゃない。」
「いや、つまんないの。」
「いろいろできるでしょう。」
「それって、めんどうなの。」
 自由はいいことですが、意外にも、することが決まるまではめんどうなことなのです。

bannsyosuiotusyuusei.jpg

  自由とは、自(みずか)らの由(よし)、と書きます。自分のよりどころが自由ということでしょう。由という文字の成り立ちを見ると、水筒のような、口が小さい壷の形をもとにして、由という文字が作成されているようです。そういえば、「由」の形は水筒の形です。口が小さいから、内にあるものは外には出にくく、内にたくわえることができます。そのようにして心の内に自分の思いが満ちることで、めんどうなことをめんどうなこととも思わない気持ちが生まれる、と考えることができます。

 その、自由についての授業を参観する機会がありました。1月の下旬、岡山県のある小学校で、先生と6年生による、自由をテーマにした道徳の公開授業が行われました。

わたしは、他の授業もあったので、途中からその授業会場に入ることになりました。すでに、資料となるお話を読み終わり、自由についての、意見が交わされていました。

「(自由というのは)自分はいいかもしれないけど、迷惑を受ける人もいる」
「(自由な行動は)他の人の自由を奪っている」
 自由について否定的な意見が出ていました。しかも、自由はいい、自由にしたいという思いを込めながらです。難しいところです。自由とは、どのように考えたらよいのでしょう。その課題は、その前に読んだ資料から起きているようでした。

 資料には、ある子ども会でのスキー合宿のようすが取り上げられていました。前の年、合宿の世話をした上級生は「きまり」を厳しくしました。しかし、それには不満が出ました。それで、今年の世話をすることになった上級生は「きまり」を少なくして、各人が「自由」にできる時間を増やしたのです。みんなは喜びました。ところが、合宿が始まると生活がみだれ、人に迷惑をかけるという事態になってしまったのです。上級生は昨年のように「きまり」を作ることも考えたのですが、せっかく始めたことなので、みんなに、自分で気をつけることを話して、もう一度、各人の自由に任せてみることにしました。すると、今度は、自分で気をつけることができて、楽しい合宿となったのでした。

 自由は、複雑に、心を動かします。子どもたちは、自由によって、人に迷惑をかける、ことを、どのように考えたらよいのか、悩むことになりました。

しばらくすると、ある子どもが、頭をひねりながら黒板の前に出て来ました。そして、自分が考えたこととして、「責任のある自由」と書きました。そのとき、なるほど、と思いました。自由を、他の人とのことで考えるのではなく、自分のことで考えるのです。責任とは、自分が引き受けたことに努めること、しなければならないという責めを自分自身に課すことです。自由とは、自分に任されること、自分の好きなようにできることです。この両者を関連づけてみると、責任は生活を守っていくために必要であり、自由はその生活の中で自分を主張していくために必要だという考え方が成り立ちます。それで、その両者を結びつけたのでしょう。なるほど...、と感心させられました。心の中に明かりがさしてくるようでした。

従来も、自由と責任という両者が並べられることはありました。しかし、それは、「自由もいいけど責任を果たして」というように、注意を促すような言い方でした。ここには、自由と責任を並列に並べ、自由は暴走するからそれを責任で食い止める、という思想があります。もっといえば、自由には悪があるのでその悪を責任で正す、ということにもなるでしょうか。それには、何だか釈然としないものを感じていました。

自由は人が真から欲するものです。その自由に悪を見て、それを正すことが必要、とするのでは、「自由」に道徳的な価値があるとはいえないでしょう。そこには、自由の善さの主張はありません。それどころか、人は悪に走る自由を欲するから、それを正すということになります。そのようにして生き方を正すのは、道徳ではなく、「しつけ」や「法」でしょう。生き方を考えるまでもないのですから。「生き方を考える」ことを重んじるのであれば、人の求める「自由」に善を見ることが前提となるはずです。また、それでこそ、「自由」を基盤にしての、学習指導要領にいう「自己の生き方を考える」作用を成立させることができると思います。

そういう思いも込めて、改めて「責任のある自由」という言葉を見てみると、さらに深い意味を感じました。責任と自由が並列ではなく、直列になっているのです。「責任をもつこと」と「自由にすること」を連ね、しなければならないことを「自分に任されたこと」として、前向きにとらえています。そして、それが、「自分の好きにすること」になるのです。ここには、自由の善さの主張があります。

bannsyoziyuukimarisyuusei.jpg

前に出ていた子どもは、さらに、図を描き始めました。頭をひねりながら、「責任のある自由」の回りを実線で囲みました。さらに、その線で囲んだ回りを点線で囲み、その外に「きまり」と書きました。(写真は再現したもの)そして、「自分の力がためされている」と言うのでした。表情はにこやかでした。みんなも納得した雰囲気で、いい雰囲気が生まれていました。

この図は何だ、...最初から授業に参加していなかったわたしは、このことの意味を探ろうとしました。点線は、目に見えない枠ということでしょう。すると、実線は見える枠。さらに考えると、見えない枠は意識していないところということでしょうか。見える枠は意識できるところということでしょう。で、考えてみました。

わたしたちの生活は、「きまり」という枠の中にありますが、そのきまりについては、普段、意識することはあまりありません。しかし、その、枠をとらえることができてこそ、その中に「責任のある自由」を意識することができるのです。きまりの枠を無視して、自分の好きなようにできているのは自由であるように見えて、実は自由ではなく自分勝手...。だから、自由はめんどうなことでもある...。自分できまりを察知しなければならないから...。自由についての考え方が、すっきりしてきました。

 さらには、「きまり」が点線であることにも、意味を感じました。きまりが点線ではなく実践であると、自由はなくなる...。先ほどの資料にあった、前年の、きまりを重視した合宿生活がそれでした。きまりに頼ると、自分の思いは働かなくなります。自分の思いを働かせることが、自分の自由度をアップさせることになるのです。そして、そのことは、子どもの言葉を借りると「自分の力がためされている」ことでもあるのです。いや、まいりました。まさに、たくましく生きる力の育成です。

 ...以上、自由についての思いを深めてくれた授業でした。道徳の授業は、見る者にも生きる力を与えてくれます。ありがとうございました。授業をつくりだしてくれた先生と子どもたちに感謝。

 人は、節(せつ)をつくり、その中で自分の生活を整えることができます。そこでは、きまりが支えてくれています。しかし、そのきまりが息苦しくなるときもあります。そのときには、そのきまりを視野に入れながら、自分のしなければならないことを、「自分に任されたこと」としてとらえてみましょう。きっと、自由度はアップし、心の中に明かりがさして来ます。

そういえば、この学校に行く途中に、おもしろいことがありました。前泊したホテルを出てタクシーに乗りました。8時40分ごろ、学校に到着してほしいと教頭先生から言われていたので、タクシーの運転手さんに告げると、運転手さんは快諾。目的地に、その時刻には到着できるとのこと。そして、念のために、カーナビを入れましょう、と言ってくれました。電話番号を告げると、目的地がインプットされました。ところが、カーナビが連れて行ってくれたところは、入り組んだ道で、とうとう袋小路になり、学校近くで迷ってしまいました。運転手さんは恐縮して、何度か近所の人に聞いては、車を大きな道に戻しました。そして、今度は、自分の感覚で運転を始めたところ、すぐに、学校の入り口を見つけることができました。そのとき、運転手さんは誇らしげでした。自由度アップの成果です。人は、自由度をあげることで、自分の価値を示すことができます。

 思えば、タクシーは「自由に」動けます。電車やバスのように「きまり通りに」動くことはしません。しかし、電車やバスは確実に目的地に到着します。その確実さがタクシーにはありません。そこで運転手さんは確実さを求めて、わざわざカーナビを入れました。わたしの頼みを大切に思ってくれたが故のことです。カーナビは、タクシーを「きまり通りに」動かそうとしました。それは、確実であり、自由ときまりのセットは、完璧に目的を遂行できるはずでした。しかし、あまりにもきまりに忠実に従うことが求められると、小さなきまりに手足をしばられ、制御不能となる...。そのきまりの限界を見限ったときの、運転手さんの人間力、見事でした。人の生き方を暗示しているようでした。

自由には不安が伴います。しかし、きまりに従うことも、確実ではないのです。節と自由、きまりと自由、それらの関係は対立関係にあるのではなく、互いのよいところを生かすためにある...ともいえそうです。運転手さん、あの日は寒い日でしたね。白々と夜が明けていくのを見ながらお客さんを待っていたと言っていました。ありがとう。あなたがかけてくれた気持ちの貴さを、今になって思います。

八洲学園大学 〒220-0021 神奈川県横浜市西区桜木町7丁目42番地

出願・資格取得について・入学前相談・教育訓練給付金等はこちら
 入学支援相談センター 045-410-0515/u-info@yashima.ac.jp

在学生・卒業生・教員免許状更新講習・就職関連はこちら
 学生支援センター 045-410-0515/u-info@yashima.ac.jp

広報・公開講座・教員への取材等はこちら
 総務課広報係 045-313-5454/u-yue@yashima.ac.jp

八洲学園大学パンフレット ※八洲学園大学の各種資料をダウンロード頂けます。

ご希望の資料はPDFでも閲覧可能です。
PDFファイルを閲覧するには、Adobe Acrobat Readerをインストールしてください。

八洲学園大学

学校法人八洲学園大学 入学支援相談センター

〒220-0021 神奈川県横浜市西区桜木町7丁目42番地
電話:045-410-0515(受付時間はこちら
お気軽にお電話ください

  • 資料請求
  • 出願受付
JIHEE