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渡邉達生の研究室便り

感動ということ

2011/02/06

ヒヤシンス  104日目.JPG

一昨日は立春でした。春にふさわしく、水栽培を始めて104日目のヒヤシンスも、太い芽をのぞかせています。思えば、三カ月間、冷たい水の中で根を伸ばし続けてきてきたヒヤシンスでした。しかし、このところの大気の気配を感じ、頃合いは充分だと思ったのでしょう、10日ほど前から芽を出し始めました。最初は、小さな緑が見えるだけでしたが、このところ、日を追うに従って、力強く芽を伸ばしています。
球根をそっとつまんでみました。これだけの根が出て、芽が出ているのです。球根の中はスカスカになってやわらかくなっているのではないかと思ったのです。でも、球根は、固いままでした。
ヒヤシンスよ、やるではないか。根や芽は、球根から引き出したものではなく、水をもとにして自分でつくりだしたものだったのだねえ。
改めて、生きるということの骨格を見た思いがしました。

先日、「体験と心の育ち」という科目の最終章で、「感動」を取り上げたところです。感動とは、「感じて心が動くこと」、というレベルで考えがちですが、でも、「感」ということ、「動」ということを、深く考えてみると、人生に果たしてくれる役割を知ることができます。

「感」という漢字は、上に「咸」、下に「心」、という構成になっています。
 それで、『漢和大字典』(学習研究社 藤堂明保編)で、「咸」と「感」を調べてみました。
この『漢和大字典』では、「咸」の意味は、戈(か)で心にショックをあたえて口をとじさせること、「感」は心を強く動かす、強い打撃や刺激を与える意味を含む、と説明されています。それで感は、心の上に口があり、その上に戈(か)が覆いかぶさっているのです。

 かつて、古代中国には、「か」と呼ばれる武器がありました。長い棒の先に横向きに刃物を取り付けたもので、これで敵をひっかけ、倒したそうです。その戦闘は、馬にひかせた戦車に三人の兵士が並んで乗り、真ん中の兵士が馬を操る御者、左側にいる兵士が指揮をすることと、弓を持って遠くにいる敵に対戦する役を受け持ち、右側にいる兵士が、この「か」を持って、接近した敵に対応したといわれています。恐いことですが、当時の戦車の戦いは、前から向かって来る敵の戦車や、逃げて行く敵の戦車に、自分の戦車を向かわせ、走る戦車どうしで戦ったのです。それで、このように、ひっかける形が発達したのでしょう。戈という文字は、「か」を持っているところを図案化したものといわれています。斜め左下への「はらい」のところが人で、戈となったのでしょうか。威力のある武器で、それを当時の人たちが文字の形に取り入れたのでしょう。
  
威力のある武器をふりかざされ、ものが言えないほどの強い衝撃を受けることが、感という文字の意味するところでした。恐ろしい場面です。そのような場面に直面すると、恐怖におののいてしまいます。ところが、この「感」という文字の使われ方を見てみると、不思議なことに気づきます。恐いことではないのです。見てみましょう。
...感謝、感泣、感化、感涙、感慨、感想、感嘆、感服、感銘、感激、感心、感状、万感。
この文字の使われ方を見てみると、この武器には、深い意味がありそうです。一見、脅されてようですが、自分に鉄槌を下す価値のある武器で、また、そうでもしなければ自分は変わらないということを示しているのでしょう。

人はともすると自分中心になります。それが、ああだ・こうだと、他を非難する心の動きにもなります。人がよいことをしていても...そんなこと、何になると、バカにしてしまうことがあります。人が助けてくれても...いらぬお世話よと、強がることもあります。人ががんばっていても...あの人は能力があるからできるのよと、その人の努力の価値を認めようとしないときがあります。自分に価値を求めるために、自分を守るための言い訳をしたくなるのです。

しかし、人は、それにも嫌になるときがあります。思えば、ひとりよがりな自分、自分のことばかりしか考えない自分、人のことを素直に認められない自分、そのような自分をふり返り、自己嫌悪に陥ることもあるのではないでしょうか。ややこしいです。人は、自分を弁護したくもなり、そのような自己弁護もイヤになり、きよらかな存在でもありたいと思うのです。

そのようなとき、自分の気持ちを断ち切る一喝があると、心は、解放されます。「感」は、その場面ではないでしょうか。よい生き方に衝撃を受けて、それまでの生臭い自分を吹き飛ばし、素直になって、いいことをいいことと思えようになる...それが、感動という心の動きではないかと思うのです。それまで、勝手気ままに動いていた心が素直になり、心にジーンとくるものを味わえるようになります。

わたしが思い出す、わが人生で初めての感動は...、幼稚園のとき、先生が見せてくれた『とししゅん』という紙芝居でしょうか。それは芥川龍之介の『杜子春』の紙芝居版でした。紙芝居の終わりの方に、牛の姿に変えられたお母さんが鬼にぶたれるのを見る場面があります。仙人になる修行中の杜子春がそれを見ます。そのときの杜子春には、声を出さないで耐えることが修行として課されていました。杜子春は必死になって耐えていました。しかし、とうとう、鬼にぶたれるお母さんを見過ごすことはできずに、「お母さん」と叫んでしまうのです。そこのところで、日ごろは、ぐずで、生意気であったわたしが、素直になって涙ぐむのでした。...先生、ありがとうございました。あれから五十数年...。人生は、悲しみの中にも味が出てくることを知りました。

思うに、あのとき、あの場面で、そのように素直に心が動いたのは、日々の生活のことがあったからではないかという気がします。当時、わたしが幼稚園に行くには、3キロの山道を歩いて行かなくてはなりませんでした。子どもの足での山道です。しかも、夏の暑さ、冬の寒さに耐えての歩きです。それは、嫌なことでした。なんで、毎日、こんなに遠くまで、歩かなければならないのか、幼稚園の近くの子どももいるのにと、子どもながらに、よくなげいたものです。意欲的な子どもではありませんでした。
ところが、お母さんが、わたしのために、毎朝、誰よりも早く起きて、かまどでご飯を炊いてくれました。当時、我が家では、一番早く家を出るのがわたしでしたから、ご飯が炊けると、わたしひとりがご飯を食べました。冬には、かまどの前のイスにすわって、「おき」の余熱で、温まりながら食べるのでした。その間に、お母さんは、弁当箱にご飯をつめてくれました。朝早く起き、かまどでごはんを炊いて、ご飯を食べさせてくれて、弁当をつくってくれる、そのお母さんの姿を見ていると、幼稚園に行くのは嫌でしたが、嫌とは言えませんでした。やがて、温かいお弁当箱をかばんに入れ、かばんの上からその温もりを押さえながら家を出て、とぼとぼと歩き始めるのでした。

日々、そのようなことがあったので、紙芝居の『とししゅん』で、杜子春の、「お母さん」と声を出してしまうところが、心に強い衝撃となったのでしょう。わたしにとっての「戈」は、その、杜子春の叫ぶ「お母さん」でした。まさに、威力のある武器でした。

生きるということは、うまくいくことも、うまくいかないことも、すべてを併せ、受け入れていくということです。その過程で、心には、喜びも、不満も、同じように蓄積していきます。喜びをもつと、喜びは自分を快活にさせます。しかし、その快活さは自分におごりを招きます。おごりはわがままを助長させます。また、不満をもつと、不満が自分に言い訳を言わしめます。いいわけは、自分勝手の助長です。自分では、よく生きようとしていても、自分に支配されてもがくことになるのです。しかし、そのようななかにあって、他から及ぼされる、よい生き方の「戈」が、自分を黙らせ、素直にさせてくれる、といえそうです。
 感動と感激とは、ちがいます。感動は、心の激しく高ぶる感激とは一線を画して、日々の生活の中にあって、心を素直にしてくれるもの、という視点を大切にしたいところです。日々、心は動いています。「ああでもない」「こうでもない」と。しかし、考えてみれば、そのような、日々の心の動きは、素直な心からは遠ざかることです。心が成長していくといういい面もあるのですが、ひとりよがりに進む道、イヤな自分になる道が築かれることでもあるのです。そこに、いわば、マサカリを振りかざされたかのように、とやかく言うな、よいこととはこういうことだと、人のよく生きていく事実が示されると、心は口を閉ざし、素直になります。自己弁護や、自己嫌悪に走ることなく、自分がもともともっていたよい心と共鳴し、心はジーンとなって気持ちもさわやかになり、心地よい世界を味わえます。
考えてみると、言いたいことがあるとき、言うことと言わないこととは、どちらが大きい力を要するかというと、言わないことの方が力を必要とします。言いたい放題に言うのは、もともと具わっている自分の力に任せているにしか過ぎません。言わないのは、言いたい自分をコントロールする自制の力を働かせているのです。感動の「動」はその「動」なのでしょう。

現代の世の中は、ますます、デジタル化、数値化され、子どもが学校で勉強することも、大人が職場で働くことも、数値で結果を求められる傾向にあります。日々努力しても、際限のない苦痛や劣等感を感じてしまうこともあるでしょう。そのようなとき、日常生活の中でのささいなことに、よく生きることの大きな衝撃を感じることで、心は素直になり、今、自分が大切にすべきこと、安心をもたらしてくれるものを見つけることができるのではないでしょうか。感動は、人生に、そのような役割をもっている、といいたいです。

ヒヤシンスもそうでした。3カ月間、冷たい水の中で根を伸ばし続けてきたその姿勢は、日々、あくせくしていたわたしを、引きもどしてくれました。そして、これから、自分らしい花を咲かせようとしている姿に、新たな元気をもらっています。春は、人にとっては別れの季節。心はさわぎます。でも、それを嘆くのではなく、新たに自分らしい姿を出す機会ができるよと、新芽は語りかけてくれます。


『心に羅針盤』には、次の手記が寄せられています。
◇ 命という意識の芽生え 
 ある日、学校での息子の様子が報告された。弁当箱の隅に残ってしまったご飯粒に向かってしゃべっていたというのだ。
「お米さん、ごめんね。せっかくボクのお弁当箱に来てくれたのに。ボクもうおなか一杯。稲を育ててくれたおじさんも、お料理をしてくれたママも、ごめんなさい。」
 私は涙が出そうになりながら、ああ、あれだ!と、思い当たることがあった。
 お米に謝っている息子の姿は、周囲の目には少しこっけいに映ったかもしれない。しかし、一年前の丁度今頃の時期に、種もみから発芽をさせ、小さな手を泥だらけにしながら苗の植え替えを体験した息子の気持ちをひもとけば、そのことがわかってくる。
 去年の春から秋にかけて、自宅で稲の栽培をしたのだ。JAの「バケツ稲」という企画に参加し、家族全員一つずつのバケツを用意して楽しんだ。観察の中で、毎日働いている農家の人々の話もした。日々水やりや天候の心配をした。旅行時にはお隣のおじいさんにお願いして預かってもらうこともした。
 秋の収穫時には、自分で作ったお米を食べる幸せを味わった。
 七歳の手の中にある土の感触が、命という意識の芽生えとなったことであろう。その体験を、家族で分かち合えたこともまた、一緒に生きていけることに対する大きな喜びと幸せを感じさせてくれた。

日々の生活が、心に感動の芽を育んでくれます。

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