「しもやけ」をしなくなったのは、いつのころからでしょうか。
子どものころは、よく「しもやけ」になりました。冬になり、耳たぶや手の甲が寒気にふれると、赤くふくれました。やがて、皮膚にヒビが入りました。ヒビは、日がたつにつれて、しだいに深くなり、ついには皮膚の下の赤身が見えるのですから、それはもう、さわったり、寒い風にあたったりすると、痛いのなんのの大騒ぎ。また、温かくしてもかゆくなります。痛さと、かゆさとで、どうしようもありませんでした。
しかし、当時は、それにもめげずに、戸外で遊んでいました。しもやけになることは、元気に遊んだことの証拠で、子どもの「くんしょう」のようでもありました。
昨日のことです。人ではなく、花がしもやけになっているのに気づきました。アザレアが、花を咲かせたものの、花びらの先端をちぢれさせ、かわいそうなことになっていました。本来であれば、ツツジに似たかれんな花を咲かせているはずです。しかし、先日の雪にやられたのでしょう。花びらの形がくずれ、冷たい風に揺れている様は、あたかも、冷たい仕打ちにあって、震えているようにも見えました。
これを見て、かわいそう、もう少し花を咲かせるのを待てばよかったね、とやさしい思いをかけることはできます。しかし、それでは不遇を嘆いて、共にめそめそすることでしかありません。ここは、あえて、他人行儀風に、思いをかけることにしてみました。
「よくぞ、この時期に花を咲かせた。えらい。」「空気がピリリと刺すけれど、それもまた一興。」「まだまだ寒い日が続く。」「しっかり、自分を生きよう。」「しもやけ同人が、ここにいるよ。」と。
しもやけの痛さに耐えた昔を思い出しながらの、激励でした。
それはまた、自分自身への励ましでもありました。子どものころのことを思い出すことで、元気がわきます。子どものときの体験は、数十年を経て、このような形で現れて来るのです。
体験といえば、体験の「験」という漢字は、もともとは「驗」と書かれていました。そのつくりの「僉」は、下部に口と人が二つ、その上部にAの形をした「ふた」があり、多くの物や人を放置せずに、集めて管理しているようすを示しているといいます。そして、馬へんの「驗(今の験)」は、集めた馬の良し悪しをきめるのに、見ただけではわからないから、ためしに乗って、その良し悪しの結果を記したところから考えられたようです。
そこから考えると、体験とは、自分でいろいろなことをためしてみて、そのことの良し悪しの結果を自分の記憶に記すことであると、考えることができます。ここに、子どものときに、たくさんの体験をすることの意味があるようです。子どものとき、記憶に記されたことが、大人になった自分の背中を押してくれるのです。
ちなみに、倹約の「倹」は「にんべん」がついて、人の生活で集めた物の無駄をなくしたことを表し、検査の「検」は「木へん」がついて、木簡を集めたもの(木の札をひもでつづった現代の本にあたるもの)をひもが切れていないかを調べたことを表したようです。また、冒険の「険」は「こざとへん」で、阝の形は丘が二段になっている形からきていて、斜面の集まるけわしい地形を表していたようです。
それぞれに、「けん」が、倹・検・険・験と違いますが、もともとの「僉」が持っていた、集めるという意味と、その発展ようを考えると、違うわけがわかります。子どものときには、これらの違いは丸暗記で覚えるしかなく、つらかった体験があります。だから、今、意味を考え、その違いの根拠を知ることに、新鮮さを感じます。ここでも、体験が生きることになっています。