新学期になりました。あれほど寒かった気候も様変わり。わたしの住んでいる地域でも、桜が満開となりました。
さて、踏ん張るか。単純にそう思えばいいのですが、どうも、桜にはさびしい思いがつきまとってしまいます。毎年、桜が咲く頃に別れがあったから。
だからでしょうか。幹にひっそりと咲いている花に心が動かされます。
最初の別れは幼稚園を卒園して小学校に入学する前。お世話になった先生がお辞めになると聞いたときでした。どうして、そんなことがあるのかと、子ども心にも不条理を感じて悲しみに沈みました。幼稚園には桜の花が咲いていました。
以来、お世話になった先生方とのお別れと、桜の花を見る時期とが重なりました。高校生のときには、「会者定離」という言葉も教わりました。
やがて、小学校に勤めることになりました。ここでも、桜の花と別れとが重なりました。担任した子どもたちは新学年に進級し、あるいは卒業して中学校に進学します。また、お世話になった同僚の教員も転勤で離任して行きます。わたしも、何年かおきに新しい学校へ異動していました。そのたびに、自分の立っている地盤がなくなるような、不安な状況に陥りました。
どうして、こうなるの...。わかってはいるけど心はついていけなくて、ブルー。
しかし、不安があるからこそ、それをふり払おうとして前に向かう気力が出たのではないか。4月からは新しくなれていた。...この頃は、そう思います。
子どものころ、故郷では、この時期、「こうら焼き」と呼んでいた行事がありました。こうらは、川原。川原の土手の草を焼く、野焼きです。冬の間に枯れていた草は焼かれ、土手は真っ黒になってしまうのですが、すぐに緑の新芽を出していました。
草の根っこは、枯れた部分を焼かせることで、再生のエネルギーを引き出すのです。人も、かくあれということでしょう。
新学期、自分をかえるチャンスです。