根性ということばがあります。つらいことがあってもそれに負けないで、木の根っこのように心にゆるぎのないものをもつことが大事だということを教えてくれる言葉です。スポーツでは、特に大切にされている言葉のようです。でも、その根性論は、体罰やいじめにも発展してしまいます。根性とは何でしょう。
「根(ね)」という文字をよく見ると、「恨み(うらみ)」と言う文字に似ていることに気づきました。根と恨には「艮」があり、同じ作用があることを表しているのです。そうか、根性をもつということは、恨みをもつことで、根にもつ、という言い方もあります。艮の成り立ちを調べてみました。
すると、古代中国の、秦の始皇帝の時代に制定されたとされる篆書では、「艮」は、
右のようになっていました。上は「目」で、下は、「匕首」と呼ばれていた小刀です。なんと、「艮」は「目」と「匕首」を、たてにならべてイラストされたものであることがわかりました。
匕首は日本語では「あいくち」と読みます。つばのない小刀のことです(俗にはドスといわれることもあります)。そういえば、この文字の形は、刀という文字を左右逆向きにしたもののようです。匕首は、護身用に、または暗殺用に用いられていました。中国では「ヒシュ」と呼ばれていましたが、日本では柄を鞘におさめたときに、ぴったりと合うからでしょう、「合口(あいくち)」といわれていました。しかし、中国から渡来する文献に匕首と書かれてあったものをも、日本で言われていた「あいくち」と読むようになったのでしょう。
「匕首」の「匕」は数字の「七」に似ていますが、少し違います。おもしろいところでは、匙(さじ;スプーン・アイスクリームを食べるときの平らな板)という文字にも使われています。「匙」という文字の右側にある「ヒ」のような形が匕首の「匕」。「さじ」はもともとスプーンのようにはあまりくぼみがなく、平らに近いものだったのでしょう。
さて、目と匕首が根の説明になっているのです。どういう理由があるのでしょう。う~ん。根っこの特徴とは何でしょう。根っこは動かない。いや、動きます。え、動かないよ。動きます、自分を広げています、タコの足みたいに。え~。...どうですか? 上の写真は、足利市の鑁阿寺にあるクスノキの根っこです。見ていると、根っこが自分を伸ばしている...何十年もかけて...と想像できてきませんか。でも、...動いていないですね。自分の位置は、もとの位置にあります。ややこしいですが、動くけれど、動いていないです。
目で匕首を見たとき、これと同じことが起きる、と考えてみてはどうでしょうか。匕首は懐にしのばせるものです。隠し持って護身や暗殺に用いられました。その匕首が見えたというとき、それは危機が身に迫ったときです。こわいですね。不安で目は離せません。じっと、匕首を見ることでしょう。見ていないと不安です。目は匕首に釘づけです。オッと、目は動くのに動きません。匕首を見たときの目は、動かないようになるのです。
木の「ね」は、周囲に根を伸ばします。そのとき、根の先は成長とともに動かしています。でも、その場所からは動かないのです。動かないように動かしている、ともいえるでしょうか。そのために、主根という太い根を、真下の地中深くに伸ばします。
心も、「うらみ」をもつと、そのことを忘れることはできません。仕返しをしたい、うらみをはらしたい、との思いが心の底からわき、そのことが自分を発奮させます。似ていますね。
恨むことは、木がいくら根をはっても動かないように、心に動かない根をもつことです。木が根をはることでたくましくなるように、人も心に恨みをもつことで困難にも動じない強さをもつことになります。恨むことは、自分をたくましくしてくれるのです。でも、それは、ときとして、自己増殖します。そして、サボタージュとなり、いじめとなっていくと、身を滅ぼしてしまうことになります。根性をもつことは、そういうことでもあるのですね。ああ、わかる。
思いを巡らせていると、いつか見たテレビの映像で、富士山への登山をしている人たちが、歩きながら、「ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょう...」とかけ声を出していたのを思い出しました。ろっこんしょうじょうは、六根清浄。人間には、六つの根がある。それを清らかにすることが六根清浄。
根性は、持つだけではなく、きれいにすることで、価値のあるものになるということでしょう。心します。やっぱ、それには「笑い」だ。落語にはげみます。今、「やかん」の練習をしています。