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渡邉達生の研究室便り

思いやりの価値

2014/11/22

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「思いやり」という行為や、その精神作用が良いことだとはだれもが知っています。でも...。それができるかどうか...。いや、できるよ、とは言えますが、これがなかなかに難題なのです。そうでもない? いえ、そうなんです。

 我が家の近くにある、あるマンションの前には、多くの自転車が道路にはみ出してとめてあり、その前を車で通るとき、危険です。対向車とすれ違うときなどは、つい、なんとかしろよ、という言葉が口に出て来ます。駐輪場がせまいので、自転車を利用している人は困っているだろうとは思うのですが、自分が迷惑を受けていることが先に立ってしまいます。

 相手のことを思っていても、迷惑だと思うと、相手を理解する思いを覆い隠し、自分を主張する自我が出てくるのです。人を思いやることの価値は、自己都合によって消える...、のではないはずですが...、そうしていることも事実です。そのとき、イヤな自分になっています。あ~あ、です。自分を超えなければ、思いやりの価値は身につかないということでしょう。どうすれば...。自分を超えられるか。

その難題に、子どもたちが取り組んでいました。それは、大人も、思いやりとは何かを考える機会となりました。

 昨日、長野県の、浅間山を望む、ある小学校(上記の写真...同校ホームページより)で、そのような「思いやりの価値」を再認識する道徳の授業の公開研究会が開かれました。
三年生の子どもたちは、担任の先生の問いかけに、自分の意見を書き出しました。用いられた資料(話)は、「和尚と虎吉」(モラロジー研究所発行)でした。

〔あらすじ〕 あるお寺に虎吉という子どもが、小坊主さんとして、入って来ました。その虎吉は、けんかをしたり、悪さをしたりしていた子で、とうとう親も見放し、お寺にひきとられてきた子でした。ところが、その虎吉は、前からお寺にいた小坊主さんたちのまじめな修行をじゃましたり、お寺の仏具を盗み出して売ったりする始末。とうとう、前からいた小坊主さんたちは、このままでは和尚さんに迷惑がかかると考え、虎吉をお寺から追い出すよう、和尚さんに進言します。最初は、「わかった」と言っていた和尚さんでしたが、日が経っても和尚さんが何も行動を起こさないので、小坊主さんたちは和尚さんに強く言います。「虎吉が寺を出ていかないのであれば、わたしたちが寺を出ていきます。」すると、和尚さん。「それならお前たちが寺を出て行きなさい。」小坊主さんたちは、あまりのことに、和尚さんに「なぜ、虎吉ではなくて私たちを追い出すのですか」と聞きます。そこで、和尚さんは、「お前たちは、出て行ってもやっていけるが、虎吉は、ここを出たらもう行くところがない。」と言うのでした。これを聞いていた小坊主さんたちは、和尚さんの深い心に気づいて、体がふるえた、そうです。そして、そのようすを、かげで聞いていた虎吉は、その後、小坊主さんたちと一緒に修行にはげむようになり、りっぱな和尚さんになった、ということです。

まじめな修行のじゃまをしたり、お寺の仏具をいいかげんにあつかったりする虎吉に対して、小坊主さんたちは怒りました。当然のことでしょう。小坊主さんたちが大事にしてきたことを台なしにしてしまったのですから。自分たちがしてきた良いとことを壊す虎吉は悪いのです。その思いは和尚さんも同じだと思ったのです。
しかし、和尚さんは違いました。小坊主さんたちが良い、虎吉は悪い、ではないのです。和尚さんには、「良い悪い」を越えた「深い心」があったのです。
その和尚さんの「深い心」とは何だろう、と子どもたちは考えていました。子どもたちはグループごとにまとまり、それぞれのグループでは一枚の大きなパネルを囲んで、考えては、書き込んでいました。

ひとりで、自分が思ったことを自分のカードに書くのではなく、グループの人たちに、自分の考えを文字で明らかにして、他の人に見てもらっているところに、互いのことを思い合い、認め合う、良い機会がありました。はずかしいような、てれるような、それでいて、認めてもらえたうれしさも感じているようでした。
 それは、思いやりの光景でした。自分の考えが、他の人と同じようにパネルに列挙されるのは、うれしいことです。認められた、という実感を味わうことができます。大人でも、意見を無視されたり、いいかげんにあしらわれたりすると、嫌な気持ちになります。思いやりのかけらもない、とさえ思います。

子どもたちは、書き込んでは見合っているとき、にこやかでした。個別ではなかった、これが、一番のいいことだったような気がします。グループ全員の言葉がパネルに書き込まれたとき、前に持っていく子どもの顔は誇らしげでした。各グループでは、思いやりの体験ができていたことになります。その後、子どもたちは、わたしも思いやりの気持ちをもちたい、と話していました。

いい光景でした。ただ、今までがそうであったように、今後も、その通りにはいかないこともあるでしょう。仲良しの友達に対してでさえ、思いやりの気持ちを忘れ、生意気だと腹を立てることもあるでしょう。生きるということはそういうことです。でも、そうではあっても、今回の、みんなで「和尚さんの深い心」を味わおうとしたことに立ち返ることで、腹を立てた自分を乗り越えることができるのではないか、そんな気がしました。

さて、その和尚さんの、良い悪いに左右されない「深い心」は、どのようにして生まれたのでしょう。それは、大人の命題でもあるように思います。大人であっても、小坊主さんたちがそうであったように、身近な人にさえ、迷惑だ、悪いことをしている、と思うと、思いやりの心は失せ、指導や怒りの言葉が出てきます。先頭にかかげたわたしの事例がまさにそうです。和尚さんの深い心は、どのようにしてできてきたのでしょう。

そのように考えてみると、和尚さんが、和尚さんであることに、その発想の手がかりがあると、気がつきました。和尚さんは、仏教の修行をされている方です。仏教は、苦しみから脱していく考え方です。人は、怒りの心、欲の心、嫉妬の心、の三毒の心をもち、それらが四苦八苦の苦しみを生み出す、と仏教はいいます。そこから脱していくために、日々の修行があるのです。

日本の仏教は大乗仏教。大きな乗り物にみんなで乗って、一緒になって苦しみから脱して行く、というものです。そのために行うこととして、「布施(ふせ)」という行為が提示されています。自分の苦しみに気をとられるのではなく、人の苦しみを理解し、人を支える。その、人を支えることが自分を助けることになる...、というのです。

和尚さんの、虎吉に対する姿勢にも、それが伺えます。虎吉を正さなければならない、ではなく、いくら悪さをしても、虎吉を支えることに徹したのでた。和尚さんとて、虎吉の行動を正したいはずです。でも、そうすると虎吉を追い込んでしまうことになります。それでは、心がすさんでいる虎吉を支えることにはならず、かえって苦痛を味わわせ、意固地にならせるだけです。虎吉をまじめな子どもにしたいという思いに、あえてフタをすることは、指導者としては苦しいことです。でも、その苦しみを乗り越え、ありのままの虎吉を支えることに徹したのでしょう。それは苦しさを伴うもので、単なる放任主義ではないのです。

そこらあたりの、和尚さんの思いを、子どもたちはよく取り出していました。虎吉は、親に見放されてお寺に引き取られたという経緯が、和尚さんの虎吉への思いを理解する手助けとなっていたようで、それをうかがわせる発言がありました。親との別れの辛さは、子どもならではの気づきでしょう。また、和尚さんの、「虎吉はこの寺を出たら行くところがない」という言葉は、子どもたちを揺り動かし、子どもにとっても、真に迫るものだったことでしょう。パネルには、多くの、和尚さんの深い思いに賛同する意見が並びました。

ところで、その、「虎吉はこの寺を出たら行くところがない」という和尚さんの言葉は、小坊主さんたちの心を揺り動かしたはずです。小坊主さんたちはふるえた、とありました。そこで、もし、違う授業展開が許されるのであれば、そのときの小坊主さんたちの思いを、子どもとともに、明らかにしてみたいと思いました。

ふるえている小坊主さんたちは何を思っていたのでしょうか?...以下に、想定してみます。

自分たちは虎吉を非難するだけで、虎吉には何が必要かを理解しようとしていなかった。
困っている虎吉に手を差し伸べることこそが、和尚さんが教えてくれていたことではなかったか。しかも、自分たちは、いつの間にか、心に「怒り」という毒を養っていた。
「怒り」をもつと、正しい判断はできない、ということを忘れていた。
それは、今まで修行ができていなかったということだ。
自分たちこそ寺にいる資格はないのではないか。
今まで、何を修行してきたのだろう。
虎吉がいくら悪さをしても、虎吉のことを大切に思い、受け入れることが、自分たちのやることだ。

...と、小坊主さんたちは、思ったのかもしれません。そう思ってみることが、虎吉への思いやりをもつようになった小坊主さんたちのことを、より、理解することになります。

とにかく、小坊主さんたちが、和尚さんの言葉で、自らの未熟さをはじ、大きく変わったことは確かです。そこに、思いやりが果たしてくれる力があるように思います。思いやりは、和尚さんの気持ちを確かなものにし、小坊主さんたちの自己中心的な気持ちを変え、いいようのない孤独と不安感にさいなまされていた虎吉を変えていったのです。

自分にこだわっていては、自分はひとりよがりのわがままに終わって、不完全燃焼。
人を支える。すると、人も自分も、良い方向に変わって行く。

そう考えていて、冒頭に紹介した、近所のマンション前に乱雑にとめられていた自転車を、その斜め向かいの家のおじさんが整理していた、と家内が話していたのを思い出しました。
そうだ、人の至らなさを非難するのではなく、それに接したのであれば、まず、自分で支えようとすること。人に文句を言いたいとき、それは、自分の支えるものが発見できるとき。わざわい転じて福となす、心機一転。思いやりは、そのような起死回生の、新しい自分をつくりだすきっかけになる。思いやりには、自分をかえるという価値がある。...そんな思いがしてきたのでした。

それも、パネルを前にして、和尚さんの深い心にとりくんでいる素直な子どもたちの姿を目にしたからでした。思いを広げてくれた子どもたち、授業者の先生、どうもありがとうございました。

お礼に、みなさんと別れるとき、落語の小噺を一つ紹介しました。前回のブログでも紹介した、「お月様とお日様と雷様」の話です。前回は、明治時代の国語読本という教科書に載っている話を、そのまま紹介しました。教科書では、生臭い部分は省略されています。落語で、わたしが知っている話は、次のようになっています。


お月様とお日様と雷様が、一緒に旅に出ました。
最初の日のことです。夕方、宿屋に泊って、夕食になると、楽しくなった雷様は、ガラガラ、ドンドンと、大騒ぎ。これには、お月様とお日様は、大弱り。雷様が寝た後で、二人は相談しました。
「これからも毎日、雷様が騒ぐとうるさくて困るなあ。」「そうだよ。迷惑だ。どうだ。明日の朝早く、わたしたちだけで先に立とうではないか。」「それはいい、そうしよう。」
ということがありまして、翌日、雷様が目をさましてみると、お月様とお日様が居りません。雷様が、「番頭さん、お月様と、お日様はどうしたのかな」と聞くと、番頭さんは、「もうとうにお立ちになりました。」と言います。
それを聞いた雷は、「ああ、月日の立つのは早いものだ。自分は夕立にしよう。」と言ったということです。(笑い)

 
実は、ここには、仲間外しの構図があります。お月さまとお日様は、雷様がうるさいといって、雷様を仲間外しにしました。うるさいのは雷様の個性。だから、二人が示し合わせて、雷様をのけものにしたことは、雷様にとっては、理不尽な仕打ち。腹立たしいことで、恨みに思っても当たり前なことです。
しかし、雷様は、そこで、「月日の立つのは早い」と、笑いをとる。それによって、怒りは帳消し。いいよ、おれは、おれの生き方で行くから、と夕立を宣言します。なんと清々しいことか。むっとしたときの夕立は、まさに、清々しい、天下一品の清涼剤です。
仲間外れにされると苦しいです。周りの人は温かい思いやりのある人だけではありません。いじめられたり、おとしめられたりすることもあるのです。でも、そのとき、雷様のように、人を恨むことなく、笑って堂々と自分を生きることを宣言する機会にすることができます。また、自分をいじめたお月様とお日様との間に距離をもって、自分を生きようとすることは、お月様とお日様の生き方をも尊重することで、これも、思いやりの、一つの形でしょう。
様々な思いやりの形があることを再認識した、良き日でした。
 長野県のみなさん、ありがとうございました。
 みなさんが、子どもたちの道徳教育にかけている熱意に、目が覚める思いでした。

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